表現コンプレックス

人それぞれの、いろんな「表現」がある。絵、詩、ダンス、歌、演技。私にとっての表現とは・・・

「文章を書くこと(エッセイ的なものから創作まで。あるいは日常のツイートまで)」私の核となるものだと思うけれど、それ故に力を持ちすぎて人を傷つける武器になることもある。新入社員の作文で賞をもらい高慢な取引先を黙らせ膠着したプロジェクトを動かした。文章を通してなら私は人に褒めてもらえたし・・・人を傷つけることもできた。私はその事実に打ちのめされ、いろいろなものを「選んで」書くようになった。すべては書かない。それも表現。消極的な表現。

「音楽(ピアノ、アコーディオン、歌)」私のコンプレックスの源。私は私の人生の少なくない時間を捧げてきたが、やればやるほど劣等感が深まるのだった。時々夢を見る。寝て見る方の夢だ。ピアノが私そのものの音の軌跡を描く。美しいコード、高揚するメロディ、それらが一体となってグルーヴする。エバンスのように美しい官能を描き切ることができたら。ジャニスジョプリンのように剥き出しの自分を表現できたら。(できればクスリの力を借りずに)

「話すこと」多くの人が自分を表現するのに使っている「会話」。私はそれがとても苦手だ。同じ言葉を使うという点では文章を書くことと共通点があるが、会話の「生感」「リアルタイム性」がとても怖い。私の話すことで目の前の人が、退屈し、失望し、傷つき、そっと離れていくのが怖い。言いたいことが伝わらなかったり(文章のように推敲できない)相手の求めていることじゃなかったりするたびに口を重くつぐんでしまう。

だけど、私は、人生も後半になってきてそれらと折り合いをつけて生きるようになってきた。上手くなるわけではない。折り合いをつけるのだ。
安全そうな話題についてだけ書く。弾ける程度の曲だけを弾く。同じことを何度も話す。大爆笑は狙わない。クスッと愛想笑いしてくれれば上出来だ。
それは空しいことだろうか。うん、多分。

表現すること。私の中身を抉り出して捧げることはどうしてこんなに怖いのだろう。素手で触られたら血が噴き出すかもしれない。だけど、それに共感したり微笑したりしてくれる人がいれば、それは何にも代えられない喜びになる。喜んで一緒に血を浴びよう。

私は今回、いつもと違う文章の書き方をしてみた。私は、多くの場合、文章の最初から最後までまず書き切ってしまう。例えば要点をあらかじめ頭の中でまとめておいたり起承転結を用意しておいたりはしない。あるいは無意識で書きながらそれをやっている。

今回、穴埋め問題を解くように、起を2、3行書いたと思えば結を2、3行書き、承を箇条書きにし説明を加え、起に戻り・・・というように行きつ戻りつして書いてみた。

このテーマについてはまだ空欄があって私はなかなか埋められずにいたのだ。今も埋めきれてない。でもこれを「今」書くべきだと思った。

たぶん「あわいのあわ」もささやかな表現だから。余白であり表現。